STORY創業ストーリー
#01東京オリンピック・パラリンピック、過去に類を見ない決断
2021年、7月。東京オリンピック・パラリンピック大会選手村。
『いよいよ明日からか』
3000㎡、東大寺大仏殿とほぼ同じ広さのフィットネスセンターにひとり立った鈴木岳.は、不意に思いがけない感情に襲われました。
『もし、選手たちに利用してもらえなかったら・・・』
前回のリオデジャネイロ大会閉会後、最高の“アスリートファースト”の実現に着手。数えきれないほどシミュレーションを重ね、準備を進めてきた5年間、一度として浮かんだことのない感情でした。
必要最小限にとどめられたウェイトスタック型のトレーニングマシン、代わって全体の面積ほぼ半分、46%に広げられた──以前はストレッチに苦労するほど狭かった──コンディショニングエリア、正反対と言ってもよいほど過去大会とは異なる空間デザインと機器選定は、フィットネスセンターのマネージャーでありチーフトレーナーである鈴木岳.が中心となって組織委員会が推し進めてきたものでした。
開会と同時に不安は立ち消えました。端的に言えば“大盛況”。時間帯によっては、選手の間を縫うようにして移動しなければならないほどでした。
オリンピック期間、述べ約54,000人が使用。1日の利用人数のピークは約3,000人。パラリンピック期間の延べ人数は18,000人、1日のピークは1,000人。各設備の使用状況も意図に即したものでした。利用率がもっとも低かったのは スタック型のマシン・エリア、もっとも高かったのはコンディショニング・エリア、次いでフリーウエイト、オリンピックリフティング。私たちR-bodyの施設と共通する機器選定と空間デザインが、世界のトップアスリートが求めているものであったという手応えが残る結果でした。
#02トレーナーという職業の現実。
トレーナーの本場アメリカで武者修行をしてきた鈴木が、日本に戻ってきて抱いた違和感はもうひとつありました。それは、「トレーナーという職業の地位」について。
とあるナショナルチームに帯同して世界中を回ることになったときのこと。誰も鈴木のことをアメリカのように「アスレティックトレーナー」として見ておらず、報酬も十分な金額とは言えないものでした。
また、アメリカのスポーツの現場では、アスレティックトレーナーは「準医療従事者」と呼ばれ、実際に自分の手を使ってどこかに痛みのある選手に対して施術することができますが、日本ではそのような行為は許されません。
自分で磨いてきた「手」が使えない。日本に戻ってきたとき、鈴木は「自分はこの先なにをすべきか」を考えました。医者になるか。理学療法士になるか‥‥。同時に、一匹狼の職人として自分の腕ひとつで食っていく人生でいいのかという葛藤もありました。
#03本当の「選手のため」とは。
日本のスポーツ業界におけるトレーナーに対する評価の低さに愕然とした一方で、鈴木は初めて帯同したナショナルチームで、他の多くのトレーナーたちがそうであるように、選手たちからの信頼を得るための行動に出ます。
選手も代表レベルのトップアスリートなので、商売道具である自分のカラダを簡単に他人に預けてくれません。そこで、自分の「腕」を披露すること、つまり、自らの知識やスキルを総動員させた手技を通じて、まるで魔法のように「一発で痛みを取り除くこと」によって信頼を勝ち得ていきました。
選手たちから信頼される。腕も磨かれる。順風満帆に見えましたが、鈴木の頭には、別の考えがよぎります。
この調子でつづけていれば、「ゴッドハンド」と呼ばれるかもしれない。けれど、自分という存在に依存したままで根本的な痛みの解決をしなければ、選手は「痛くなる→治してもらう」を繰り返すのではないか。
長い目で見てその選手のためになっているのだろうか。そんな葛藤の中で、「痛くならないカラダづくりを覚えてもらうこと」‥‥それこそが、トレーナーの役割なのではないかと考えました。
#04日本人の手は世界一。
繊細で、器用で、しなやか。
日本人の手は、トレーナーという職人として世界一の資質を持っていると思います。そのため、医・科学的な知識を身に付け自らの手技を極めることで、トレーナーの腕ひとつでカラダの痛みを取り除くことは不可能ではありません。それはもちろん日本人として誇らしいことですが、鈴木は考えました。
「自分が職人としてカリスマトレーナーになることで、自分の見たい世界はつくれるのだろうか」
トップ選手の痛みを自らの腕ひとつで解決できることは、いちトレーナーとしてこの上ない喜びです。一方で、痛みの根本を解決しなければその選手はまた同じところが痛み、また自分のところにやって来なければなりません。
他人が痛みをとることは、いわば風邪の人に特効薬をあげるようなこと。痛みの出ないカラダ作りをサポートすることは、風邪を引かないための手洗いうがいの仕方を教えてあげるような、地道で、すぐには感謝されないことかもしれません。それでも、長期的な視点を持ってその人のカラダのためにすべきことを突き詰めたら、自分の進むべき道が見えてきました。
#05部活のような会社。
トレーナーという職業に対する認識や価値を転換していくこと。トレーナーの持つ専門的なノウハウを広く社会に役立てていくこと。人びとの価値観を丸ごと変えていくような取り組みを行うこと。根本的な痛みを解決するために運動の知識を伝えていくこと‥‥。
こういったあらゆる問題意識と志を胸に、2003年、R-bodyは生まれました。当時、鈴木は32歳の大学院生として学生証を持ったままの起業でした。ビジネスについての知識を一切持たないままの起業でしたが、鈴木は「すべては部活動で学んでいた」と振り返ります。
同じ目的に向かってひとりひとりに役割がある「チーム」であること。独りではたどり着けないゴールに向かっていくこと。スポーツの現場から学んだそれらのことを会社経営に活かしました。
さらに、頭の中にあるビジョンを実現させるためには、「同志」の存在が不可欠だと鈴木は考えました。鈴木の想いに共感したトレーナーはもちろん、大学の研究者や医療現場の先生方など、志を共にする方々とのコミュニケーションの機会を増やしていきました。
#06100年後、存在しない職業。
R-bodyでは一般的なトレーナーのことを「コンディショニングコーチ」と呼んでいます。人を導いていく役割という意味を込めて、コーチとしています。いわば「先生」と言えるかもしれません。
私たちは、いつかはトレーナーという仕事がなくなるのではないか、と考えています。それは、読み書きや四則計算と同じように、こどもの教養のひとつとして「コンディショニング」がある未来を想像しているからです。100年後には、学校の先生がコンディショニングを教えているかもしれません。
痛みに寄り添い、自らの「手」でカラダの不調を改善させるのではなく、カラダと運動にまつわる正しい知識を広めて、その人にとってのトレーナーがその人自身になること。そこに導いていくことが私たちトレーナーの使命なのではないかと考えます。
余談ですが、鈴木の両親はどちらも小学校の先生。何年経っても全国の教え子の結婚式に招待されるほど人徳のあった両親だと言います。そのような尊敬する父母の姿を見ていた鈴木にとって、トレーナーが教育者という立ち位置になるビジョンを描くことは必然だったのかもしれません。
#07社名に込められた想い。
「『人』のカラダを再生させること」。設立当初、それが自分たちのやりたいこととして「R-body」と名付けました。『人』というのは、限られた一部のトップアスリートだけではなく、老若男女すべての人を指します。ホンモノのトレーナーのサービスを、届けたいと考えました。
R-bodyは、「このビジネスは儲かる」ではじまったビジネスではありません。トレーナーという職人として得た技術や知識をどうやったら人の役に立てられるか、ただそれだけを創業以来考えてきました。その結果として、日本におけるアスレティックトレーナーという職業の地位向上に寄与できればと思います。
2020年。いよいよ「医療と運動」の距離を本格的に縮めていきます。約20年前、地元のフィットネスクラブで見たあの光景を変えるために。
#08東京オリンピック・パラリンピック、過去に類を見ない決断
2021年、7月。東京オリンピック・パラリンピック大会選手村。
『いよいよ明日からか』
3000㎡、東大寺大仏殿とほぼ同じ広さのフィットネスセンターにひとり立った鈴木岳.は、不意に思いがけない感情に襲われました。
『もし、選手たちに利用してもらえなかったら・・・』
前回のリオデジャネイロ大会閉会後、最高の“アスリートファースト”の実現に着手。数えきれないほどシミュレーションを重ね、準備を進めてきた5年間、一度として浮かんだことのない感情でした。
必要最小限にとどめられたウェイトスタック型のトレーニングマシン、代わって全体の面積ほぼ半分、46%に広げられた──以前はストレッチに苦労するほど狭かった──コンディショニングエリア、正反対と言ってもよいほど過去大会とは異なる空間デザインと機器選定は、フィットネスセンターのマネージャーでありチーフトレーナーである鈴木岳.が中心となって組織委員会が推し進めてきたものでした。
開会と同時に不安は立ち消えました。端的に言えば“大盛況”。時間帯によっては、選手の間を縫うようにして移動しなければならないほどでした。
オリンピック期間、述べ約54,000人が使用。1日の利用人数のピークは約3,000人。パラリンピック期間の延べ人数は18,000人、1日のピークは1,000人。各設備の使用状況も意図に即したものでした。利用率がもっとも低かったのは スタック型のマシン・エリア、もっとも高かったのはコンディショニング・エリア、次いでフリーウエイト、オリンピックリフティング。私たちR-bodyの施設と共通する機器選定と空間デザインが、世界のトップアスリートが求めているものであったという手応えが残る結果でした。
#09医療とトレーニングの密接かつ強固な連携を実現
冬季オリンピック4大会(2002ソルトレイク、2006トリノ、2010バンクーバー、2014ソチ)、夏季オリンピック2回(2012ロンドン、2016リオデジャネイロ)、計6回オリンピックに携わった鈴木岳.が目の当たりにしたのは、医療とトレーニングが関連づけられていないという現実でした。
国際オリンピック委員会(IOC)は、ポリクリニック(総合病院)とフィットネスセンターを選手村に設置することと定めていますが、東京大会以前、両者は物理的に離れたところに位置していたのです。
この東京オリンピック・パラリンピックでは、機器選定と空間デザインの一新と並行して、フィットネスセンターの配置についてもそれまでのオリンピックに類を見ない変更を遂行しました。
医療とトレーニングを密接かつ強固に連携させるために、同じ建物の中にポリクリニック(1階)とフィットネスセンター(3階)を配置。トータルコンディショニングサポート──医療機関の「診断」→理学療法士(PT)による「治療」→アスレティックトレーナー(AT)とストレングスコーチ(SC)が連携して「整え」「鍛える」──を実現させました。
#10過去のオリンピックには見られなかった光景の数々
過去のオリンピック・パラリンピックにおいて、フィットネスセンターに常駐していたのは、マシンメーカーから派遣されたスタッフで、主たる役割はマシンの使用法の説明とメンテナンスでした。
しかし、繰り返しになりますが、医療とトレーニングの連携抜きにアスリートサポートを語ることはできません。
東京大会では、オリンピック・パラリンピック史上において、初めて組織委員会がAT、SCを公募、選ばれた人たちがコンディショニング指導を始め、様々なサポート業務を担いました。
大会期間中、過去のオリンピック・パラリンピックにはなかった光景が至るところで見られました。
たとえば陸上の100メートル競技の選手。最高タイムは10秒08で、お尻の右側に痛みを感じていました。最初に1階のポリクリニックで受診、診断に基づいてPTが施術、痛みを解消。3階に移動し、ATがカラダをチェック。痛みの真の原因を探し出して、そこに介入。カラダの機能を改善し、後を受けてSCが正しいカラダの動きを強化。トータルコンディショニングを初めて体験したその選手は、競技が終了後もフィットネスセンターに通い続けました。「この後、国内選手権がある。そこに合わせてベストコンディションに持っていきたいんだ」
陸上の1万メートルの選手はドクターと来館。コンディショニングの一部始終を映像に記録したドクターは言いました。「今日はこの選手のアスリート人生の転機です」
フルマラソンの選手に付き添ってやってきた女性ドクターは、初めて見るコンディショニングに強い興味を示し、質問を重ね、大会終了後はzoomでR-bodyとミーティングを継続しています。
選手を連れて毎日のようにフィットネスセンターに来館。AT、SCの動きをじっと見つめていた南アメリカ大陸のPTは、閉会式の日もやって来て言いました。「ぜひ、トータルコンディショニングサービスを教えてほしい」
#11『日本の選手をオリンピックの表彰台に押し上げる力になりたい』
抱いた夢をかなえるために鈴木岳.はアメリカに留学、ATC(全米公認アスレティックトレーナー)を取得しました。
1998年に帰国、自宅近くのスポーツクラブに行ったときのことでした。
「ゴルフ、やってる?」
「まったく。もう腰が痛くて痛くて」
「おれは肩、ほら、これ以上上がらないんだよ」
鈴木岳.は思いました。この人たち、これからどんなトレーニングをするんだろう?
立ち話を終えた中年の男性たちは、ずらりと並べられたマシンに向かいました。10×2セット。終わると別のマシン。さらにつぎのマシンへ。
「今日はこれくらいにしておくよ。お先に」
「お疲れさん。おれはあれを10回3セットやったら終わり」
えっ? 鈴木岳.は驚きました。
腰痛の原因は腰にはありません。患部への施術で一時的に痛みを取ることはできますが、やがて、再発します。根本的に解決するためには、遡って原因を特定し、機能を改善していかなければなりません。
「この腰の痛みは、この3カ所の筋肉が弱くなっていることに起因しています。それらを強化するために、このメニューから始めていきましょう」
ATC取得後、アメリカのPTクリニックに勤務した鈴木岳.が、当たり前のように行っていた、このようなトレーナーサービスが日本にはなかったのです。
ないのならつくればいいじゃないか。鈴木岳.は思いました。日本の各地のフィットネスジムに、アスレティックトレーナーの知識と技術を持った人間が入れば、あの人たちのように痛みなどに苦しんでいる人を助けることができる。近隣の病院と連携をとることによってメディカル面の下支えもできるし、地域の学校の運動部などにもサービスを提供することもできる。
すぐ企画書をつくり、大手のフィットネスクラブを片端から訪ねましたが、まったく話が噛み合わず、何度も鼻で笑われました。
そもそもトレーナーという職業が日本ではまったく理解されていないわけなのだから、腹を立てたり、文句を言ったりしてもしかたがない。鈴木岳.は思いました。トレーナーという職業をきちんと認識してもらえるように、まずは自分自身が日本でのトレーナーとしてのキャリアを積み重ねて行こう。
#12目標は選手がトレーナーを必要としないようになること
縁あって、ナショナルチームのトレーナーに就任。直面したのは想像もつかない現実でした。契約書が無く、報酬は日当で、コンビニのアルバイトの3時間分にも満たない金額。なにより衝撃を受けたのは“トレーナー”という仕事がまったく理解されていないことでした。
帯同した合宿の初日、選手がやってきて言いました。
「ちょっと揉んでもらえないっすか」
「どうした?」
「筋肉痛かな、みたいな」
チームには20人余りの選手が所属し、トレーナーは鈴木岳.ひとり。朝6時前からケアを開始。最後のひとりを仕上げ終えるころには、いつも日付が変わっていました。
日が経つにつれて第1関節から先の指の腹にポツポツと赤い斑点が浮かび、やがて斑点は水疱になりました。それでも施術をつづけるうちに水泡はつぶれ、10本の指先の皮がすべてはがれ落ちました。
鈴木岳.がめざしたのは、選手たちの自立でした。
「腰の痛みを取ってほしい」と言われれば応えることはできます。試合前など、必要とあれば痛みを解消しますが、これを日常的に行えば、選手はトレーナーに依存するようになってしまいます。
自分のカラダを理解し、自分で痛みが出ないカラダをつくること、すなわち、トレーナーを必要としないようになることが目標でした。
#13“トレーナー”を社会からきちんと認められる職業にしたい
そのためになにをすればよいのだろうか。ナショナルチームに全力を投じる一方、鈴木岳.は人生という尺度で将来を模索し続けました。
アメリカではアスレティックトレーナーは “準医療従事者”として施術することができますが、日本では民間資格のひとつであり、そのような行為は認められていません。
日本の医療資格──医者、理学療法士、鍼灸師、柔道整復師──を取るべきなのだろうか? 鈴木岳.は思いました。自分ひとりが高みをめざし、カリスマトレーナーになろうとするのなら、それも方法のひとつなのかもしれないが、トレーナーの地位を押し上げる力にはなれない。
2002年2月、冬季オリンピックソルトレイク大会。ナショナルチームのサポートを開始してから4年目、表彰式で日本国旗がひるがえりました。
夢をかなえた鈴木岳.は、かねてから思い描いていたプランの実行に取りかかりました。
「ホンモノを身近に」
トップアスリートに送り出してきたトータルコンディショニングサービスを、クオリティーをそのままに一般の人々に届けるトレーナーカンパニー、R-bodyの設立です。
#14より多くの人、街、国に「ホンモノを身近に」
アスリートはカラダが資本です。問題が発生し、それを解消することができなければ、すべてを失うことになりかねません。 自分のカラダについて、世界でもっとも繊細な感覚の持ち主が集まる場所、すなわちオリンピック・パラリンピックにおいて、高く評価されたトータルコンディショニングサービス。
人、街、国のライフパフォーマンスを押し上げるために、R-bodyは、このオリンピックレガシーとしてのトータルコンディショニングサービスを継承し、より広く、より深く展開していきます。