コンディショニング対談 No.0515センチの無限。

三澤拓×鈴木岳.(R-body)

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三澤拓×鈴木岳.(R-body)

小学校に上がる直前に左足を失ったが、持ち前の運動能力と負けん気の強さで、だれよりも遠くに跳び、サッカーボールを追いかけ、野球チームではエースで4番でキャプテンを務めた三澤拓(ひらく)さん。「ただひとつ、失って悔しい思いをしたスピード感」も、小学校2年のときに始めたスキーで取り戻し、中学校3年生でナショナルチーム入り。冬季パラリンピック5大会連続出場。ワールドカップ、世界選手権大会で3度表彰台に立った。2013年、かねてからの「世界一になる」夢をかなえたいとR-bodyへ。「トップアスリートも健常者も障害者も等しくカラダはカラダ」。コンディショニングでカラダを一から見直し、整え、さらには15センチに可能性を求めた10年間。

*本文中は敬称略とさせていただいています。

鈴木: 昨年の東京大会をはじめ、夏冬合わせて9回、オリンピック、パラリンピックに関わってきましたが、強く感じたのは、パラリンピックの選手の方が人の話に対するアンテナが敏感で、コミュニケーションの取り方が非常にポジティブだということでした。

三澤: オリンピック選手は飛び抜けた運動能力の持ち主、なんでもできてしまうスーパーマンですが、ぼくたち障害者はひとりではできないことがある。周囲の人たちのサポートが絶対に必要なので、必然的にコミュニケーションの量がオリンピック選手より多くなるということはあると思います。

「夢を与える」「勇気を与える」は絶対に口にしない

鈴木: パラリンピックの選手は全般的にコーチャブル、つねに指導やアドバイスを受け入れる姿勢にあると感じますが、三澤さんはその最たるひとり。人の話を聞き、学びにして、自分のものにするという意識がすばらしく高い。

三澤: コーチと選手がポジティブな要素を生むためには、いかにしてお互いが発言しやすくなるような人間関係をつくるかが重要だと思います。だからぼくは鈴木さんともフランクに話します。ぼくから聞きたいことはもちろんたくさんありますし、鈴木さんも、どういった感覚が欲しいのかというようなことを聞いてくれる。

鈴木: 教えるだけではなく、学ぶだけではなく、お互いを知り、理解することですね。

三澤: ナショナルチームに入り、ヨーロッパアルプスの只中に立ったとき、世界の広さ、自分の小ささを知り、余計にスキーに引きこまれました。知るということによって世界が広がり、興味をかきたてられ、チャレンジにつながる。知らなければスタートに立つこともできません。今日、この会場にいらした方も、パラリンピックやぼくという存在を知ることによって、なにかポジティブなものを手にしていただければと思います。

鈴木: もうひとつ、折に触れて感じさせられるのは、人は人に支えられて生きているという感覚が、三澤さんはとても成熟しているということです。

三澤: 「夢を与える」「勇気を与える」という言葉をよく耳にしますが、ぼくは違うと思うんです。夢や勇気は与えられるものではなく、人それぞれがそれぞれに持つもの。ぼくがスキーをやれているのは、周りの人のサポートがあるからこそで、夢や勇気をもらっているのはぼくです。だからインタビューでは絶対に「夢を与える」「勇気を与える」という言葉は口にしません。ぼくがやるべきことは、なによりも一所懸命、目の前のことに取り組むこと、がんばっていれば、手を伸ばさなくても周りのサポートしてくれるようになる。そう思っています。

鈴木: 交通事故に遭われたのは、たしか6歳のときでしたね?

鈴木: はい。12月22日です。父親に買ってもらったプレゼントを手に、道路に飛び出してしまい、そこに10トントラックが。事故の瞬間を目の当たりにした父親は、死んでしまったと思ったと言っていました。はねられる直前に右半身を引いたようですが、左足はタイヤに巻きこまれて、切断するよりほかにありませんでした。手術後、母親が言いました。「拓の足は天国へ行ってしまったけれど、命があるから頑張って生きていってね」。ぼくは聞きました。「自転車には乗れるの?」「うん、乗れるよ。なんでもできるからだいじょうぶ」。それ以後、今日までで「『やれるかやれないか』ではなく『やるかやらないか』」をモットーにいろいろなことにポジティブに向かってこられたのは、この言葉のおかげです。ほんとうにありがたかったなと思います。

──「New pitcher.The next pitcher will be No8,Yamazaki.The coach called out my junior,second-year student……(選手交代。背番号8山崎。監督は後輩の2年生の名前を告げた……)

 中学3年の秋、エース、4番、キャプテンを務めた野球部を引退した三澤拓は、第54回高円宮杯全国英語弁論大会にエントリー。長野県予選を通過。全国大会予選に出場した。スピーチのタイトルは“Dear Hamlet,Igot the answer(ハムレットよ、これがぼくの答えだ)”

──そう、ぼくは先発ピッチャーだった。だが、10四死球で5点を失い、3回途中で2年生の後輩投手と交代になってしまった。頭を垂れ、ベンチに向かう僕に、チームの仲間たちは言った。『ストライクを入れろよ。打たれたって、俺たちが捕ってアウトにするから。バックを頼ってくれよ』と。
 人に頼る、それは僕が最も嫌いな言葉だった。人頼みにせず、なんでも自力で解決するのが僕のポリシーだった。人に頼るべきか、自分に頼るべきか? それが問題だ。どちらがより大切なのだろう。
 僕にはハンディキャップがある。6歳のとき、交通事故で左足を失った。両親はショックを受けたが、しかし、僕の自立を願った。[『15歳・拓(ひらく)の挑戦・義足のエースと仲間たち』より引用抜粋]

三澤拓×鈴木岳.(R-body)

鈴木: 高い潜在能力の持ち主だな。10年ほど前、初めて三澤さんに会ったとき、そう感じたのをよく覚えています。

三澤: 2013年、大学生でした。ぼくの大好きな地元、松本の幼なじみがR-bodyで働いていて「一度、来ないか」と誘われたのがきっかけでした。2010年の冬季パラリンピック・バンクーバー大会で、ぼくも周囲の人も絶対にメダルを取れると思っていたスラローム(=回転競技、もっともターンのリズムが細かい種目)の2本目で転倒。それから成績が下降し始めて、なにかを変えなければいけないと思いながら変えることができずにいた、そんなときでした。当時「トレーニングをしたい」と言うと「いや、うちは障害者を指導したことがないので」と断わられるジムが多かったのですが、R-bodyは気にする素振りをまったく見せることなく、あたりまえのように受け入れてくれました。

トップアスリートも健常者も障害者もカラダはカラダ

鈴木: 今日、会場にR-bodyをご存知ない方もいらっしゃると思いますので、少しだけ説明させていただくと、R-bodyはフィットネスジムではありません。医療と連携を取りながら、カラダのコンディションを整えるコンディショニングサービスを行う施設です。来年、20周年を迎えますが、サポートさせていただいたトップアスリートは約1000人、のべ30万回のパーソナルセッションを実施、そこで得た知識と経験を一般の方にお伝えしています。

三澤: トップアスリートも健常者も障害者もカラダはカラダ、オリンピック選手と一般の方が隣り合わせで同じメニューに取り組んでいる。異なるのは回数と負荷だけ。R-bodyならではの光景ですよね。

鈴木: スキーのための、野球のための、サッカーのためのトレーニングをやりたいという人がいらっしゃいますが、最初からその競技に特化したトレーニングをやると遠回りになってしまうことが多い。ベーシックなトレーニングメニューには、カラダに必要なほとんどすべてが含まれています。正しく行えば、概ねパフォーマンスが上がる。たとえばスクワット、三澤さん、スクワットを横方向から会場の方に見せていただけますか? 皆さん、このスクワット、2本の足で行っているみたいですよね。トレーナーになってから30年になりますが、本当に驚くほど精度が高い。

三澤: R-bodyに来る前は、足を太くすることばかり考えていたんです。右足の前の部分の筋肉のパワーに頼った滑りで、ハムストリング(太ももの後ろの筋肉)やお尻の筋肉も大きなパワーを秘めているのに、それを使えていなかった。スクワットをしようとすると、ただお尻が落ちるだけ。まったく姿勢が取れませんでした。

鈴木: 立ち方の練習から始めましたね。

三澤: ええ。腰が反ってしまったり、体幹が不安定だったり。そこから始まって、最初の1年は正しい姿勢をつくるために、ウェイトを持たず、ひたすらスクワット。股関節が正しく動いて、前後の筋肉をバランスよく使うことができるようになるにつれて、カラダ全体を効率よく動かせるようになっていった。太ももの前側の筋肉に頼って滑っていたときは、ひざに負担がかかって、アイシングが欠かせなかったんですけど、それも必要なくなりました。

 英語弁論大会での三澤拓のスピーチは次のようにつづいた。
──そして、両親は僕にスキーを与えてくれた。僕は、奈川のスキークラブの一員になった。コーチが僕に最初に言ったのは「自分でできることは自分でしろ」だった。僕がゲレンデで転んでも、誰も助け起こそうとはしなかった。何度も何度も転ぶうちに、僕は自力で立ち上がることを学んだ。練習後、僕は大人と一緒に長くて重いスラロームポールを集めた。そのときも誰も手伝ってはくれなかった。僕の両親さえもだ。「自分でできるよ、やってごらん」と言って、僕を見ているだけだった。
 僕は必死になって練習した。数年後、腕を上げた僕は、ジャパンパラリンピックに参加するまでになり、2位を勝ち取った。僕はがんばりさえすれば何でもできるんだと悟った。
自分自身を信頼する僕が、どうして他人を頼るだろう? 僕は中学に入ると、野球部に入部し、そしてエースピッチャーになった。僕は自分のピッチングを過信するあまりに、しばしばミスをし、バッターをフォアボールで出塁させ、負けを喫した。監督も仲間たちも、何度も言った。「バックを信じて、打たせて取れ」。

三澤拓×鈴木岳.(R-body)

三澤: (ショートパンツの裾を上げて)ぼくの左足は、このように15センチほどしか残っていません。左ターンは右足を外足(ターンの外側の足)として使い、健常者と同じように足裏の内側で外力に対抗することができますが、右ターンではそれができません。右足の足裏の外側で外力に耐えなければならず、バランスを取ることがむずかしい。R-bodyでコンディショニングをしているとき、そういうことを話したら、鈴木さんにこう聞かれたんです。「右ターンのとき、左足はどうしている?」「いえ、どうもしていません」「左足、筋肉は残っているよね」「はい」「じゃあ、ちょっと左足を意識的に動かしてみようか」

鈴木: 三澤さんのレベルまで行くと、ほんのわずかなところにそのスポーツ特有の動き、彼のカラダの個数に合わせてやらなければならないところが出てきます。左足にも神経や筋肉があるのであれば、その機能を出力することで変化を呼び起こせないかということで、ベーシックなトレーニングを十分にやりこんだ上でのチャレンジでした。

左足が無いという認識が変わった

三澤: 左足の動きを意識するようにしてみたら、15センチに大きな可能性を秘められていることがわかった。以前はせいぜい前後に揺らすぐらいしかできなかったのが、腸腰筋を使って、このようにさまざまに(左足を実際に屈曲、伸展、外転、内転、外旋、内旋)動かせるようになり、カラダの使い方の効率、バランス能力が断然上がりました。

鈴木: 彼の右足そして今の左足は、ぼくらのスポーツ医学的な観点や理論に基づいた考えを完全に超越したレベルにまで発達しています。こういうアスリートと関わらせてもらうと、本当に学びになります。

三澤: なにより変わったのは、左足は無いものと決めつけていたぼくの意識です。たとえばスクワットを行うとき、左足の絞りをちょっと意識するだけでターンの質が上がる。カラダの可能性は無限、限界をつくっているのは意識なのだなということを気づかせていただきました。

鈴木: 雪上でのイメージを具体的に思い浮かべながらスクワットをするか、ただスクワットをするか、一流なれるかなれないかを分ける重要な部分ですね。

三澤: 片足なのでどうしても練習に時間がかかるし、たくさん滑ると怪我をする可能性が高くなる。コンディショニングをしっかりやって、少ない練習でベストパフォーマンスを出す、これが理想とするところです。

鈴木: カラダを整えておけば、コンディショニングの動きとスキーの感覚をベストパフォーマンスに向けてつなぐことができる。年齢を重ねるにつれて、トップの選手は口を揃えてそう言うようになりますね。

──今まで僕は、他人に頼るのは弱さのしるしだと考えていた。僕はヒーローになりたかったのだ。次の大会で、僕は再び先発した。そして今度は、仲間たちを信じた。それは僕の人生で最高のピッチングだった。試合には負けたが、仲間たちは皆「ナイスピッチング!」と言ってくれた。僕は自分がいかに自分勝手であったかを知った。自分のハンディキャップを隠そうとするがゆえに、僕はまわりの皆がさしのべてくれた手と、温かい心から目をそむけていたのだ。
このことに気づいたとき、僕は肩の荷を下ろしたような気持ちになった。僕は今でも何かにつけ、人の助けを必要とする。それは僕が障害者だからじゃない。僕が人間だからだ。
僕には夢がある。それはパラリンピック、そしてオリンピックで、片足のスキーヤーとして競うことだ。来年、スキーの練習をするために、ニュージーランドの高校へ進もうと決めた。僕は自分自身を信じ、まわりの人たちの力も借りて、金メダルを勝ち取りたい。人の助けを受け入れることを忘れずに。それが、僕の得た答えだ。
ご清聴ありがとうございました。

三澤拓×鈴木岳.(R-body)

三澤: ナショナルチームに入ってから20年、パラリンピックにも5大会出場させてもらってきましたが、今年はナショナルチームを辞退、現役をつづけるか、活動の場所を移すか考えているところです。

鈴木: 具体的にどのような活動を?

三澤: ナショナルチームを世界一になれる環境にすることです。これまでは後輩に背中を見せることでチームを引っ張ってきましたが、現場から少し離れて組織の側に立ってみると、今まで見えなかったことが見えてきて、世界一の選手を育てるためにやらなければならないことが少しずつわかってきた。今年1年は悩もうと決めて、いろいろ考え、想像していますが、さいごは「やるかやらないか」、実践あるのみです。

「やるかやらないか」を貫き通すしかないだろう、と

鈴木: アスリートの役に立ちたいと思い、約30年前、アメリカに留学してアスレティックトレーナーの資格を取得。声をかけられて帰国したところが、提示された金額が日当3000円。アスレティックトレーナーがどういうものなのかまったく認知されていませんでしたし、コンディショニングという言葉はないも同然でした。なんとかしてアスレティックトレーナーを世の中に認知してもらいたい、コンディショニングを広めたい、三澤さんの言葉を借りれば「やれるかやれないか」ではなく「やるかやらないか」という思いで立ち上げたのがこのR-bodyです。コンディショニングは医療と連携できるだけの知識と経験が大前提。アメリカではアスレティックトレーナーは医療従事者ですが、日本はそうではありません。我々がミッションに掲げています「人、街、国のライフパフォーマンスを押し上げる」の実現のために、医療とサービス業の間の非常にタイトでリスクのあるラインを突き進んできたわけですが、今日、奮い立たされました。「やるかやらないか」を貫き通すしかないだろう、と。

三澤: あるとき、酒を飲んでいた父親が不意にこう言ったんです。「よく、ここまでやってきたなあ。もう、スポーツができなくなってしまったと思ったよ」。片足=スポーツができないと想像するのは、あたりまえのことで、親戚もみんなそう思ったようです。でも、やっぱり想像はあくまで想像。立ち止まらず、あきらめず、スタートを切ることだと思います。うまくいくことも失敗することもあると思いますが、カラダが健康であれば、新鮮な気持ちで挑戦できる。そのためにもコンディショニングをつづけていきます。引退を決めたわけでもありませんし。

鈴木: 自責と他責という言葉がありますが、三澤さんはつねに他責を自責に置き換えている。自分だったらどうするのかな、やらなかったことはなかったのかなということを、すごく考えている人なのだと改めて強く感じました。ひるがえって自分はどうなのか。なにかをやらない理由を他責にしていないか、問題が起きたことをだれかのせいにしていないか。今、この瞬間から、すべてのことを自責に置き換えて過ごしていきたいと思います。

三澤 拓

三澤 拓MISAWA HIRAKU

6歳で交通事故に遭い左脚を太ももから切断。 幼い頃から様々なスポーツに取り組む中で8歳でスキーを始める。
15歳からパラリンピックアルペンスキーナショナルチームに所属。 そして、パラリンピック競技大会へ5大会連続出場。
現在は競技活動以外に学校や企業での講演活動も行なっている。

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